2012年9月7日金曜日

『愛ニ飢タル男』のわたしの作品に於ける私感(わたくしかん)

『愛ニ飢タル男』の

わたしの作品に於ける私感(わたくしかん)



一、先づおとなしく



わたしは先ごろ、とは言つてももう去年の十二月の事だが、わたしの最初の自費出版をした。
 それは、わたしの一番最初の作品、詰り、處女作といふ意味ではない。
 去年の十月頃から約三箇月ほどかかつて書上げた、それも短歌形式に則(のつと)つて物語風に書いたものである。
 題名は『愛ニ飢タル男』とつけた。


 先づ斷わつておくが、これはわたしの事を指すものではない。
 斷じてさうではない。
 わたしの事も含まれてゐるといふ事は認めるが、わたしの事は、畢竟(ひつきやう)、含まれてゐるといふに過ぎない。
讀者は作品を鑑賞する時、儘(まま)にして、その作品には恰(あたか)も作者自身の事が書かれてゐるかの如き錯覺(さくかく)をする。
特に日本には「私小説」といふ日本獨特の表現方法を持つ様式(ヂヤンル)があるぐらゐだ(私小説(イツヒロマン)は西洋にもあるにはあるが日本のそれとはかなり異なつてゐる)し、さらに人情家で世話好きな、さうして詮索好きの日本人には合つてゐるらしい。


わたしの作品を讀んでくれた、多少なりともわたしを知つてゐる知人の彼も、やはり日本人であるらしく、

「愛情がほしい! といいたいのならば、こんな不可解な言葉の羅列は不必要だ」

といふおあつらへ向きの批評をしてくれた。
 彼とわたしとは餘(あま)り突込んだ話をした事がなかつたが、少なくとも、彼とわたしとはお互ひによく休學したとは言へ、四年間も同じ學校に在籍してゐたのであるから、附合ひは長いと言へた。
彼は今年の三月に卒業して、わたしだけがまだ入學以來、原級留置きの儘で在學してゐる。
あるいは、彼はわたしの擧動(きよどう)や言動から何かを感じて、わたしの作品に對する忠告のつもりで、もつと別の事に重點(ぢゆうてん)をおいて言つて來てくれたのかも知れない。
だが、それはそれで良いとしても、作品の鑑賞法としてはどうだらうか。
彼がわたしに言つてきた事は、勘繰(かんぐ)れば忠告ではなくて、それこそ良い恰好をし、良い氣になつて、智識人ぶつた自負を、わたしに押賣りしてゐるのではないか。


わたしが何故このやうな事を書く氣になつたのか。
これから書かうとしてゐる事は、いはば自分の作品を自己批評しようとしてゐる事になつてしまふ。
だからどうなつて行くかは保證の限りではないが、ともあれ、わたしは厭(いと)はずに欲する儘に書いて見ようと思つてゐる。
この作品は、と敢(あへ)て斷わつておく必要もないのだが、他の文藝作品と同じやうな宿命を背負つてゐて、良い方にも惡い方にも解釋が出來得る。
作者のわたしは、無論よく思つてゐる。
が、時として物凄く惡い、下らない、とさへ思ふ時も度々ある。
わたしの意見はあとで言ふとして、作者がかう思つてゐるのだから、二つ以上の意見が出ない方が不思議なぐらゐである。
しかし、それに對する是非は文學作品に限らず、藝術一般、いや、もつと廣く、創り出されたものには始終纏はりついて來てゐるものである。


今、わたしの手元に、この作品に對する感想が二通屆けられてゐる。
一通はさつきも書いた、わたしの學校仲間の彼である。
もう一通は――もう一通は名古屋に住んでゐる年配の畫家で、わたしの遠に當る人である。
なにかの暗號ででもあらうか、その彼といふのも画家の卵である。
(しか)るに、この二通の手紙の文面は、この作品に對して對照的な見解を示してゐて、この作品が二つ以上の違つた意見を考へ得るといふ、恰好の材料となつてゐる。


讀者は一方の意見を、あるいは、

「親戚同士だから、甘いのではないか」

と思はれるかも知れない。
確かに、わたしに對する忠告にしても、親身になつて言つてくれてゐるのであらう。
が、こと批評に關しては――矢張、甘いかも知れない。
さうして、わたしの事を褒()めてゐないもう一方の意見を、わたしが蔑(ないがし)ろにしはしないかとの懸念(けねん)を持たれるかも知れない。
だが、その期待だけは裏切られなけらばならない。
なんとなれば、兩方ともにわたしの言はんとする的を射止めてはゐないのだから。
わたしは今から兩者に引導を渡さう思つて、これを書いてゐるのである。
讀者は兔()も角(かく)、兩者は覺悟をしてもらひたい。


わたしは!
いや、落着かう。
それよりも、ここで一つ兩者の大雜把な意見を紹介しよう。
一通目の意見は、報告(レポオト)用紙に箇条書きで、

『言葉のアソビ
 何がいいたいのか?
 愛の押売り
 制約する必要がない
 こんな事をするなら勉強しろ
 人生をもっと見ろ
 エセインテリ青年むけ』

とあり、御負けに、

『君の怠慢とナンセンスを証明している作品で、時間の浪費ですぜ』

とまで言つてくれてゐる。
有難い事である。


この報告用紙を見た親友の、鋭白道氏は、

「この男こそ、あいうえお、の勉強をしなくちやいかん!」

と言つた。
それは餘(あま)りにも、彼の字が蚯蚓(みみず)の這つたかの如くで、殆(ほとん)ど超人的な讀解力を必要としたのであつた。
皮肉な言ひ方をすれば、それは彼に言はせれば藝術的なものであるのかも知れなかつた。

「しかし、それはお互ひに言ふ可きではないね」

わたしは鋭白道氏の問ひに對して、かう答へた。
氏は苦い顏をした。
わたしも鋭白道氏も、餘り字の方は巧(うま)いとは言へなかつたからである。
が、わたしは別の意味で、彼に對して秘(ひそ)かに思つたものである。

「あいうえお、の勉強をした方が良い」

と。


もう一通は、わたしが名古屋まで行く譯がないのだから、勿論、手紙である。
その手紙の内容は、

『仲々面白い。形破りで、新鮮味があり、絵もいいものがある』

といふ具合ひに、實に淡々と書いてあり、達筆で、

『その道に進むのなら、專門の歌人なり詩人の弟子になるといい』

との忠告もあたつた。
わたしとしては申し譯なくも、

「その儀、お斷はり云々」

の手紙を書かしてもらつた次第。


わたしがここで二人の意見を紹介したからと言つて、なにも兩者の意見が間違つてゐる、と言ひたいのでは毛頭ない。
わたしは人が作品を讀んだ場合、その人のいふ意見は、作品の善し惡しは兔も角としても、その感想を持つた人間その人自身の尺度になるのではあるまいか、と思つてゐる。
詰り、一人の人間が一つの作品を讀んで、

「善い」

とか、

「惡い」

と言つても、その作品の眞の價値を示してゐるとは限らない。
だが、逆にその人間の價値を表してゐるといふ事は、當らずとも遠からずと言ひ得るのだはあるまいか。


ついでに書けば、この作品を仕上げるのに、約三箇月ほどかかつたと書いたが、三箇月間ぶつ續けで書いてゐられる譯がないので、所要時間は、正味は三日にも滿たないだらう。
尤も、何もしない時間といふものも、一つの作品を書上げる爲には、必要であつたのかも知れないから、矢張、所要時間は三箇月といふ事になるのかな。




二、辯明(べんめい)すれば

(さて)、わたしはここで『愛ニ飢タル男』の「後記」に對(たい)して、もう一度、詳しく解説しようと思ふ。
先づ、

『一つの制約の中で、人間は一體(いつたい)どれだけの事が出來るものであらうか』

といふ最初の言葉がある。
これは今まで誰にも解つてもらへさうになかつたやうだ。

 『一つの制約』とは、どういふ意味であらう事か。

 考へれば、短歌で作つたといふ事も、三十一文字(みそひともじ)の『制約』がある。
しかも、わたしは「折句(をりく)」といふやうな、一見、凡(およ)そ藝術らしからぬ形式のものを持ち出してきてゐる。
これだけでも、二つの制約がある。


「折句」とは、わたしの作品の中では、

  「あ
   い
   う
   え
   お」

から、

  「わ
を」

さうして、

  「ん」

に到るまでの五行を、各頭(かくあたま)の一句立(いちくりつ)として、十首の短歌を四囘づつくり返して、四十首の短歌を作つたものの事である。


(すなは)ち、「五七五七七」の短歌に、

  あ えあかなる
  い としき人の
  う しろ影
  え て忍ぶれば
  お きどころなし

と五行分けの短歌で、各々(おのおの)冒頭に、

 「あ
  い
  う
  え
  お」

と折込んだといふ譯である。
これが、

 「わ
  ゐ
  う
  ゑ
  を」

まで續いて十首になる。
それを四囘くり返し詠んで、四十首にしたといふ事である。


但し、

 「ん」

に就いては、「わ行」の下句を一文字加へて「五七五七八」とし、最後の文字が「ん」になるやうに作つて、その一文字を獨立させて別の行に持つて來たといふ譯である。
詰り、『ゆきずり』の「わ行」を例にとれば、

  わ びしさや
  田 舎ぶ里の
  浮 雲は
  會 者定離をば
  を しへて盡()きせん

といふ短歌を、

  わ びしさや
  田 舎ぶ里の
  浮 雲は
  會 者定離をば
  を しへて盡きせ
  
  ん

と、このやうに分解したといふ意味である。


これは「後記」にも書いたやうに、道楽の一種で、今では誰も顧みるやうな人はなくなつて來たが、昔からあつたもので、古くは『伊勢物語』などにも見られる。
例へば、「かきつばた」と題して、

  か ら衣
  き つつならにし
  つ ましあれば
  は るばるきぬる
  た びをしぞおもふ

と詠まれたものがある。


發句などでも、「ゆたか」と題して、

夕 立の
  田 をみめぐりのも
  神 ならば

と、芭蕉十哲(ばせうじつてつ)の一人、其角(きかく)も詠んでゐる。
また、もう少し難しいもので、「沓冠(くつかぶり)折句」といふやうなものがある。
「沓冠」とは、發句に於いては雜俳(ざつぱい)の一つで、七文字の題に、上五句と下五句とをつけて、十七文字の一句立とするものである。
例へば、『角川古語辭典』にあるやうに、「あちらへ向くも」と題して、

お袋の
あちらへ向くも
  一つ穴

の類(たぐひ)である。


短歌に於いては、十文字からなる言葉の一文字つづつを各句の頭((かむり)=初めの字)五文字と、及び各句の尾((くつ)=終りの字)に五文字を置いて詠むものとされてゐて、吉田兼好も「米賜(よねたま)へ錢(ぜに)も欲()し」と題して、

  夜 もすず   し
  ね ざめのかり ほ
  た まくら   も
  ま 袖も秋   に
  へ だてなきか ぜ

と詠んでゐる。


また、『榮華物語』にも、

  あ ふさか   も
  は ては行きき の
  せ きもゐ   ず
  た づねてとひ こ
  き なばかへさ じ

とある。
これは各句の上(かみ)で「あはせたき」となり、各句の下(しも)で「ものすこし」となる。
合せると、「あはせたきものすこし」といふ題になり、「あはせたきもの」とは「合薫物」と書き、練香(ねりか)の事を意味し、練香(ねりか)を少し下さいといふ意味になる。
練香とは――そんな事はどうでもいい。


確かに、これは道樂かも知れない。
しかし、それはさう見ようとして見るからで、彼の言つたやうに、

『言葉のアソビに過ぎん』

と言へばさう見える。だが、

『形破りで新鮮もがある』

と思つて見れば、さう見えなくもない。
言葉の遊びとは言つても、一つの短歌をさへ詠むのは、さう容易(たやす)い事ではない。
()して、「折句」は發句では現在でも一部に殘つてゐるらしいが、短歌ではもうまるで殘つてゐないといふのが現状らしい。
これは現代といふ時に左右されてゐる事には違ひないし、それに勿論、わたしはこれを流行(はや)らせようと思つてした事ではないが、出來るものならやつて見るが良いと言ひたくもなる。
しかし、「折句」に就いて幾らわたしが、したり顏で偉さうな事を言つては見ても、辭典で調べた事を書いたに過ぎないのだから、たかが知れたものである。


「折句」の説明はこれで終るとして、わたしが言つた『制約』の事に戻るが、短歌を使つて物語にした事もそれである。
だが、わたしの作意はそれでもない。
それよりも、もつと簡單な事である。
では、この『一つの制約』といふのは何かと言へば、わたしは人間には生きてゐるといふ制約があり、死ななければならないといふ制約があると思つてゐる。
繪畫(くわいぐわ)などでも、畫家(ぐわか)は畫布(キヤンヴアス)と繪具(ゑのぐ)が必要であるやうに、すべてにこの事は當嵌(あてはま)ると思ふ。
わたしはそれを、「折句」といふ忘れられたもので見立てたまでの事である。
わたしが言ひたかつた事は、「折句」を作つた事ではなくて、「折句」といふ表現手段を取らせしめた根本的な動機、あるいは全人類的な主題でもある、人間は生きてゐる、もしくは死ななければならない、といふその『制約』を超越したものにする事であり、それは具體的には「折句」によつて作つた短歌を、人に見せても「折句」とは感じさせない事である。
詰りは、冒頭に置かれた「あいうえお」を、如何に気づかれないやうに、無理のないやうに書くかといふ事であつた。


讀者(どくしや)はこれを故事(こじ)つけと思ふかも知れないが、わたしは一向に構はない。
讀者は一つの作品を必要以下に評價(ひやうか)すれば馬鹿にすると同時に、その作品を過大評價する事も間違ひとするだらう。
しかし、さう思ふ事がもう間違ひではないか。
わたしは一つの作品からは、得られるだけの事を得なければいけないと思つてゐる。
たとへ作者自身の氣がついてゐない事でも考へて行くべきだ。
いや、寧(むし)ろ、わたしは作者自身が見逃してゐる事を見つけようとするのが、わたしの讀書の仕方であると言へる。
わたしといふ人間の表面的な部分を、多少なりとも知つてゐる彼や老畫家は、それ故に、わたしの作品を片寄つた讀み方しか出來なかつたのではあるまいか。
もしさうだとすれば、それはわたしに取つて必要な讀者ではない。
わたしに取つて必要でもない讀者が、わたしの作品に惡口の限りを盡(つく)しても何しようものか。
わたしは一向にかまはないのである。
わたしは秘かに思つてゐる。
この作品を讀んだ者は、『いづこへ』を讀み終へて乃至(ないし)『後記』を讀んで、初めて「折句」だと氣がつくのではあるまいか。
あるいはそれでも気がつかないのではないか、と。
だから、わたしはこの作品は成功したのではないか、と思つてゐる。
少なくとも、二人からの手紙を讀んでゐる今のわたしには。


わたしの言つた『一つの制約』とは、まづこんな所である。
あとは、短歌とか發句といふものへの關心を高めてもらひたかつた事などである。
それから、

『物語を智識人(インテリ)青年の好みさうな』

とあるが、これはどういふ意味かといふと、青年が胸を患(わづら)つたと設定した事にある。
何も胸を患つたとしなくても良かつたのに、してしまつたといふ事への言ひ譯の心算(つもり)で、『智識人(インテリ)青年云々』としたのであるが、一體、胸を患つた事の何處が『智識人青年の好み』に合ふのかといふと、これは全くわたしの一人相撲で、文士といふものは昔から胸を患つて死去した人物が多い。
まさか、痔を患つてゐるとか、糖尿病だとかいふのは餘り聞いた事がない。
また、實際にあつたとしても、戀愛小説などにその事をそのまま書くといふ譯には行かないだらう。
そこで、わたしの貧しい想像力(イマヂネエシヨン)には、胸を患つたといふ事が、どうしてか『智識人青年』と結びついてしまふのである。
だから、彼が態々(わざわざ)これを取り立てて、

『エセインテリには好かれるかの知れん。ミーハー向きだ』

と言つて來る必要性を、わたしには見出せないのである。
これはどういふ意味で言つて來てくれたのであらうか。
それに、わたしには、『ミーハー向き』の『ミーハー』といふ意味をまるで知らないのである。
そのうち彼に聞いて見ようと思つてゐるのだが。
次は藝術といふものに關するわたしの意見だが、また、これは別の時に書きたいと思つてゐる。


とすると、もう他にいふ事は、この二人の意見に對する答へだけである。
彼の意見に答へてゐない事は、

『一、愛の押し売り』
『二、愛のタタキウリ』
『三、愛のバーゲンセール』
『四、制約する必要がない』
『五、もっと、勉強しろ』
『六、人生をもっと見ろ』
『七、愛とは何か!
『八、愛は超越すべきものと思う』
『九、人間はそも一人だ』

まづ、こんな所である。
早速、今からそれに答へよう。

『一、二、三、』は、この作品はわたしの事を指すものではないから、押賣りなどをしてゐる事にはならないと思ふ。
『四、』は、制約する必要がないのではなく、されてゐるのである。時代あるいは歴史に、さうして生死にも。この認識のずれは大きいかも知れない。
『五、六、』は、ご尤も。
『七、』は答へたくもない。
『八、九、』は、思ふのは勝手だ。

彼に對する答へは、以上でおしまひ。


もう一通の方は、
『一、仲々面白い』
『二、形破り』
『三、新鮮味がある』
『四、絵も良いものがある』

この答へは、次の通りである。

『一、』は、何がどう面白いのか不明。
『二、』は古今の樣式の蹈襲(たうしふ)であり、
『三、』は、それを知らない人が多いといふだけの事である。
『四、』は、畫家ぢやあない。

となる。
ついでに種明かしをすれば、『後記』に

『「愛飢男」を「哀飢男」とするか否かといふのに多少戸惑(とまど)つた』

とあるが、このやうな事實は全くなかつたのである。
こんな事を言ひ出すと、讀者は不快になるかも知れないが、これは『後記』を面白く讀んでもらはうと思つた、太宰流に言へば、作者の讀者に對する奉仕(サアビス)精神の現れである。




三、忌々(いまいま)しいのは

 まだあつた。
 『後記』に關した解説になるかどうかは解らないが、これもまた機會(チヤンス)があれば書いて見たいと思つてゐた事だから、いつそ書いておかう。
 それは、わたしの作品でわたしが自負してゐられるのは、わたしが誰の智慧(ちゑ)も、誰の能力も、さうして誰かの作品を讀んだから書けた作品ではないといふ事を自覺してゐたいからである。
 これは實に他愛のない事だと思はれるかも知れないが、わたしに取つては、さう思はれてゐるのぢやないかと思ふと、不愉快極まりないので、多少、被害妄想氣味である。


恐らく藝術に携はる人ならば、皆、この氣持を抱いてゐる事であらう。
いや、藝術家のみか、一般の人達ですらも、自分の考へたものがもう誰かによつて創り出され、あるいは考へ出されてゐたとすれば、無念なる思ひをする事と思ふ。
わたし如きは人一倍の、まるで利己主義(エゴイズム)の塊(かたまり)である所から、自分で作つたと高慢ちきになつてゐる事が、謂()はば生甲斐みたいなものだから、もう誰かが考へてゐたとか、とつくの昔からあつたやうな事を言はれると、愛する我が作品も破り捨てたいやうな苛立(いらだ)たしさを覺(おぼ)えるのである。
(いはん)や、これから書かうと思つてゐた作品に於いては、もう全く創作意欲をも失()くしてしまふ程の力を持つに及んでゐる。
何が忌々しいかと言つて、これほど忌々しい事はない。
しかも、わたしの創作活動に於いては、さう言つた事が極端に多いのである。
わたしなどの考へた事の大半は、古人がもう考へ出してゐるので、わたしはそれらを如何に新生面の方へ持つて行くか、といふ事にいつも四苦八苦してゐるのである。
だから、わたしは人の作品を讀まずに、專(もつぱ)ら歴史書や雜學本や辭典などを讀み漁(あさ)る事にしてゐるのである。


しかし、それでも『愛ニ飢タル男』を書いたあとに、それがあつたのである。
これを書上げた時のわたしの歡(よろこ)びは、非常なものであつた。
題名(タイトル)を考へついた時の如きは、それこそ氣も狂はんばかりであつたらうか。
さうして、大喜びでわたしは最初の作品に於ける自費出版を、試みようとした。
それは去年の十一月も終り、新しい年まで一箇月もないといふ時分だつた。
わたしは勇んで印刷屋を開業してゐる北川氏に、一册いくらぐらゐで出來るものかと訊くと、五、六拾圓ほどで出來るととの事だつたので、わたしは有頂天になつて、『愛ニ飢タル男』の印刷を引受けてもらふ事にした。


それから印刷が出来上るまでに、さう時間のかかるものではない、と言ひたいのだが、一週間しても二週間しても、本が出來上がつては來ない。
師走も半ばを過ぎたので、已()むなく、わたしは北川氏に電話で經過を問ひ合せた。
師走の事だから、何處とも忙しいのだらうと思つてゐたのだが、それにしても、約束の期限からもう二十日以上も過ぎてゐたので、わたしは一つ文句を言つてやらうと思つたが、いざとなると、氣の弱いわたしには言へたものではない。
結局、『愛ニ飢タル男』が出來上がつたのは、師走も暮に暮、二十九日のなつたので、學校仲間の大西氏に頼んで、自家用車で一緒に神戸の方まで、出來上がつた本を取りに行つてもらつた。
大西氏は非常に喜んでくれて、百册ほど賣るからと引受けてくれて持つて歸つてくれた。
千部も刷つたのであるから、賣()り捌(さば)く自信はあつたものの、その山と積上げられた本には、多少、戰意を失はれ氣味であつた。
(いま)だに八百册ほどがわたしの家で、おとなしく包裝紙の中で眠つてゐる。


わたしには今年、高校生にならうとしてゐる弟がゐる。
その弟がわたしに、

「この『愛ニ飢タル男』といふのは、ラヂオの深夜放送で、一般の人からの筆名(ペンネエム)として、よく歌謡曲の聽取者(リクエスタア)の中に出てくるよ」

といふのである。
しかも、それは數年も前からその筆名はあつたのだと言ひ、弟は知つてはゐたのだが、わたしの作品の對象として考へた事がなかつたから、今まで氣がつかなかつた、と言ふのである。
これを聞いたわたしは、俄然、頭にきた。
いや、流石(さすが)に慌てた。
今更、印刷をし直す譯には行かないし、と思つたからだ。
讀者は、たかが題名(タイトル)の事で、といふかも知れない。


それは確かにさうである。
だが、わたしとしては、わたしの獨創性を大いに買つてゐるのだから、さうは行かない。
と言つて、この本が賣り切れてから、もう一度この本を再版するに當つて題名を書き直さうと思つても、この本が賣り切れるのはいつの事やら解らないし、第一、賣つてしまつてからでは、この題名として通用させられてしまふやうにも思はれる。
また、都合良く自費出版しようとする無精者のわたしなどには、その時が來ても、再版する資金のある筈はない。
ここに到つては、全くたかが題名の事で、と思はざるを得なくなつてくる。
もう諦めるより仕方がない。
ただ、慰めと言はうか、わたしはこの題名と同じ筆名をラヂオの深夜放送からは聞いてゐなかつたので、それが暗示(ヒント)にはなつてゐない事だけが救ひであつた。
だが、却つて業腹な事には、その放送に『愛ニ飢タル男』といふ、斯()かる名前の持主がゐたといふ事をわたしが知つてゐたならば、わたしもこの題名をつけるやうな事はなかつただらうに、と思ふ事だけである。
ともあれ、このやうな愚痴つぽい事を書くとは情けない事だ。
作者としては、讀者に全く辯明(べんめい)の餘地(よち)がない。
忌々しいのは讀者かも知れない。
因みに、後年、劇畫界(げきぐわかい)に於いても、『I飢男(アイウエオボーイ)』といふ漫畫まで出版されてしまつてゐる。




四、目論(もくろ)んでは見たが

 本を出版する時に先づ考へなければならない事は、金錢の事もさる事ながら、誰が讀んでくれるであらうか、といふ事が重要だと思ふ。
 全く、わたしのやうな者には厭(いや)な事である。
 何故なら、わたしは本を讀んでもらふ爲に書くのか、わたし自身の爲に書くのか、解つてはゐないからだ。
 謂()はば、どうにも仕方がないので書き出してしまふのである。
 寂しいからでもない。
 悲しいからでもない。
 嬉しいからでもない。
 遣り切れないから、かも知れないが、しかし、さうでもなささうだ。
 わたしはふつと女性の事を考へる。
 白いものが頭の中でしばらく漂つてから、やがて、それは美しい女性の顏や姿となつてくる。


 わたしがものを書くのは、この世に女性がゐるからである。
 わたしは女性に、これだけのものを書いたと披露したい。
 それはわたしの願望である。
 どうしてさうなのかと言ふと、美しい女性と歩いてゐる時、わたしは生きてゐて良かつたとさへ思へ、また、美しい女性とわたしにも話せる事が出來、しかもわたしに興味を持つてくれてゐるのだ、とさう思つただけで、わたしは一つの作品を書上げる事が出來るのである。
 さうして、その時のこそ、わたしの作品は人に見てもらふ爲に書いた、といふ事になるのだが、さういふ事はわたしの生きてゐる間には、どうもなささうである。


 しかし、わたしの周りに女性がゐなくても、わたしは『愛ニ飢タル男』ではない。
 わたしは女性を愛する事を避けてゐるから……。
 とは言つても、そんな事は當()てにならないが、わたしは心の中で女性を愛し續けようと、かう思つてゐる。
 だから愛には餓ゑずに濟むだらう、と。
 心の中の女性はわたしの思ひに儘で、大變(たいへん)に素晴しい。
 偶(たま)に、現世の女性が心の中の女性と一體になる事もあるが、それは心の中の女性の化身である。
 現世の女性の性質や心は無視してしまつて、その美しい容貌だけを把(つか)まへてゐるのである。
 この心の中の女性は誰であるのか解らないが、兔に角、特定の一女性ではない。
 わたしに都合のいい女性だ。
 ただ、この女性は實用的ではない。
 この時に、この鏡の中の女性は悲しい顏をする。
 横道に逸()れてしまつた。
 事故の起きない内に、元に戻さう。


 わたしは『愛ニ飢タル男』を出版するに當つて、全くの冒險をおかして自費出版に蹈み切つた譯ではない。
 一金數萬圓也、を友人達に借り廻つたのである。
 それ程までして、無計劃(むけいくわく)で運ぶ譯には行かなかつた。
 御負けに、千部も刷るのである。
 これは商賣も出來ないわたしに取つては、大博打なのであつた。
 わたしは印刷を北川氏に頼む前に、先づ、かう目論んで見た。
 大阪で五百部を賣り捌き、殘りの五百部は各都市に出かけて賣()らう。
 各都市といふのは、北海道から北陸へ、東京から名古屋へ、中國地方から四國へ、さうして九州へと賣りに行くか、何らかの工夫を講じて、兔に角、ばら撒かうと思つてゐた。
 それには、赤字も固(もと)より覺悟の上(もうこの時點で早くも目論見は崩れてしまつてゐるのだが)だつた。
 わたしは寧(むし)ろ本を讀んでもらへるのなら、ただでも上げたいぐらゐである。
 金ならば、働けばまた出來る。
 しかし、熱心な讀者はさう簡單には見つからない。
 それは勿論、わたしの生活の糧にしようとは思はなくても、元は取り戻したいといふ野心は人竝にある。
 

 それから、大阪で賣り捌かうと思つた五百分だが、これは來年の三月に大阪の千里丘陵で、正規の祭典なる萬國博覧會(ばんこくはくらんくわい)が開催される。
 ここには七十七箇國が參加する。
 わたしはこれに目をつけた。
 もしかすると、日本の土産にでもして持つて行つてくれるのではあるまいか。
 うまく行けば、日本の文學を研究してゐる外國人がゐて、その人が自國へ持つて歸つて、その國の文學研究者に見てもらふ機會があつたとしたら、きつと、ど偉い事になるのではあるまいか。
 ひよつとすると、日本のあらゆる賞を通り越して、ノオベル賞になるかも知れないぞ。
 もし受賞したら、日本では文學者としては二人目になるぞ、と愚にもつかない事を考へるに到つた。


 更に、わたしの目論見は續いた。
 それはわたしの『愛ニ飢タル男』の印刷が出來上がつて、二、三日經つてから解つた事だが、同人誌といふものは、如何に賣り場所を探すかといふ事に總てがかかつて來る。
 これは本當に困つた。
 わたしはそのお蔭で、その間は一册も賣れなかつた。
 そこで、わたしは考へた。
 同人誌がかうも賣れないのなら、いつそ日本中の同人誌ばかりを集めて、大阪に一軒でも良いからその專門店をつくり、それを各地に幾つか出店して行けば、やがて文學界にも、また違つた方向が生れて來るのではないか、とわたしは考へたのである。
 全くこれは、わたしの考へとしては上出來の方である。
 だが、わたしの考へは幾ら發展しても、印刷してから萬國博覧會の始まつてゐるこんにちまで、結局、八百部も殘つてゐるといふのは、どういふ譯であらうか。
 將(まさ)に、これこそわたしの言はんとす可き事である。
 實()に行動力に缺()けるわたしとしては、何とか目論んでは見ても、鬼に金棒がないどころか、色鮮やかな、虎の皮のパンツもないが如きである。




五、餘(あま)りに實驗(じつけん)的な

 かういふ試みは、こんにちまで成()されてはゐなかつたものと筆者は信じる。
 豐葦原瑞穂の國、秋津島、日の出づる國といはれてゐる日本の國の事である。
 幾つかの關聯性のある短歌を列(つら)ねて、一つの物語を作る事は、あるいは今までに誰かによつて成されてゐるかも知れない。
 さうして、もし成されてゐたとするならば、それは著名な人々によつてと言ふよりも、むしろ無名の詩人や歌人なり、俳人なりによつてであるとの感がわたしには強い。
 著名な人によつて成されたと思ふよりも、さう思つた方が眞實味が増すのである。


 しかし、今からわたしの成さうとする事は、古今を通じて、わたしが初めてであると思つてゐる。
 この試みは、この後も更にかなりの變化を經()て、いろいろな方面へ、と言つても主(おも)に短歌や發句、さうして古きに到つては旋頭歌や片歌などいてにも、その樣相を表すであらうと思はれる。
 現に、短歌に於いてはその着想が、もう進められつつある。
 

それは――勿體ぶらずに言はう。
 散文と定型詩の融合である。
 碎いて言へば、短歌に小説をつけ加へるのである。
 これは本來『愛ニ飢タル男』を出版する時に、見事、實現される可き筈のものであつた。
 が、わたしの力の及ぶ所ではなかつたらしく、結局、その時は短歌だけを出版した事は識()る人ぞ知るといふ破目になつてしまつた。
 勿論、わたしの本意ではなかつたのだが、その代りに、今、わたしはその小説の方を書かうと下準備をしてゐる。
 出來れば合併(完全)版として發表するつもりだが、脱稿がいつになるのかは、保證の限りではない。
 しかし、必ず書上げる事は、ここに誓言しておく事にする。
 さうでもしないと、脱稿出來ないかも知れないから、今から約束しておかうと思ふ。
 

 その荒筋を大體(だいたい)述べると、

 『獨りの放浪してゐる青年がゐて、その青年は何處にも受け入れられる所がない儘(まま)、京都へ來て何かを見つけられさうになる。
折しも、一人の女性に出逢ひ、その女性に愛を寄せようとするが、愛すれば愛する程、その事を女性に傳へ惡(にく)くなつて、京都からまた旅立つ。
せいねんは繪を描いてゐたが、別に畫家にならうとする夢はなかつた。
青年の前に紙があつて、それに書くものが文章ではなくて、繪であつたといふだけであつた』

と、ここまでが『ゆきずり』である。


『さすらひ』からは、

『青年は再び放浪の旅に出てゐるが、何かにつけてあの女性の事が思ひ出され、忘れられさうもまかつた。
それ所か、女性との生活を夢見るやうになつて、孤獨感に襲はれるやうになつた。
青年は何度か手紙を書いて、寂しさを紛はさうとしたが、それもならず、到頭、青年は京都へ歸る事を思ひ立つた。
歸る所のない筈の放浪者が、歸る事を思ひ立つた。
この時から、青年はあらゆる悲しみを味はひ始めなければならなかつた。
青年は、やがて女性の結婚してゐた事を知り、失意の儘、またもや旅に出た。
さうして、青年は心身の病んでゐる事に氣がついた。
血を吐いた青年は、それでも女性の事を忘れられなかつた。
何年もの放浪を續けてゐると、ある時、青年は女性の夫が死んだ事を風の便りに聞いて、複雜な氣持のまま旅を續けた。』

かうなつて、


『たましい』からは、

『青年は女性を影から見守る事にした。
それから、花を送つて愛を訴へようとしたが、この頃になると、青年は若き新進の畫家として名聲を得るやうになつて、金錢面でも女性への助力を惜しまなかつた』

といふやうになり、


『いづこへ』では、

『青年は仕事として繪を描く時も、女性の事が忘れられない程であつた。
(やが)て、青年は名聲もそれから得た富も捨去り、三度(みたび)、放浪の旅へ出た。
青年は最果ての地まで來て、人間の生活を嫌ふやうになつた。
青年は死の事を考へるやうになつた。
ある時、青年は愛する女性と結婚して、子供まで宿してゐる夢を見て、すぐ目を覺ました。
その後、女性の死を聞いて、救はれないやうな氣持になつた。
青年は、今こそ自分のする事を見つけた。
青年は自殺する事こそ、自分のする可き事だと思つた。
拳銃はすぐそこにあつた。
青年は、拳銃を蟋谷(こめかみ)に當てた。』

と、以上のやうな物語にするつもりである。
勿論、時代は現代であるが、この選擇の仕方についてはあとで述べる事にする。


しかし、さつきは偉さうにこのやうな試みは古今を通じて、わたしが初めてであるといふやうな事を書いたが、元を正せば、短歌だけでは物語性に缺()ける爲に、どうしても散文を入れなければ説明がつけられない、といふ餘(あま)りに偉くもない事が原因である。
これがもし新しい試みで良い作品になつたとすれば、全く怪我の功名といふ外はないのである。
尤も、新しい試みといふものは、かういふ定石を蹈んでゐるのもだといふ感がしないでもないが、いづれにせよ、わたしが偉さうにする事はないのである。


この外に、この試みは短歌集の『しらとり』と、旋頭歌の『しろたへ』などを作らうとして、手をつけた儘となつてゐるが、これまた、一體いつ出來上がるか解つたものではない。
筆者としては、荷が重いといふ外はない。
それから、この試みは芭蕉の紀行文やその他の俳文から、多分の暗示を得てゐる事を、わたしは結果論として感じてゐる。
しかし、それよりもわたしは先づ讀者の如何に、今の『愛ニ飢タル男』の讀みづらい事かを知つて、申し譯なく思つてゐる。
筆者には、文章を書く時に氣をつけてゐる事がある。
それは自分が讀んでも樂しくないものは、人が讀んでも樂しい筈がないと思つてゐる事である。
それと同じやうに、讀みづらい文章といふものも、かなりの問題があると思つてゐる。
何故なら、作者を終へた後のわたしも、矢張、わたしの作品の讀者となるのだから……。




六、わたしの求めてゐるもの

到頭、わたしはこれを書かなければならなくなつてしまつた。
 それといふのも、わたしの作品には押し竝べて解答を出したものがないからであるが、今、漸(やうや)くこの事に對する讀者の反應(はんおう)らしきものを見る事が出來たわたしは、愈々(いよいよ)これを書かなければならないとの思ひを深めてゐる。


 わたしの求めてゐるものを知つてもらふには、わたしの作品を讀んでもらふのが一番であるのは言ふまでもないが、わたしの作品を讀んだ人は、必ずと言つていいほど不必要な描寫(べいしや)が多いといふ。
 だが、作者はこれを受入れない。
 理由は明白、必要だからである。
 これは櫻塚の高校にいらつしやる、白川稔先生の受け賣りだが、

 「ネクタイといふものは、一見、不必要に見えるが、服裝の空白を埋める爲の、延()いては一つの調和として見るべきだ

 といふやうな事を言はれたのである。
 わたしも若輩ながら、さうも言へると思つて拜聽(はいちやう)してゐた。


 だが、わたしの言ひたかつた事は、まだ外にもある。
 讀者が不必要だといふ描寫が、何故、作者にとつて必要かといふと、物語が餘りに非現實的であるからで、一般的に見て考へにくい事だと思つてゐる。
 そこで、せめて現實的なものを持つてきて、讀者に現實感を與(あた)へたい、若しくは副次的な動機としたいと考へたのである。
全く不必要なものを、書かう筈もない。
 書かなければならないからこそ、書くのである。
 それはさておくとして、一つの作品を讀んだ場合に、讀者が考へる事は幾らでもあるのだが、それらを一つひとつ考へてもらふ事が、わたしの言ふたかつた事ではない。
 のみならず、この作品から一人ひとりが、各々これらの一つひとつを考へても意味がない。
 では、どうするかといふと、一人ひとりがこの作品から考へ得る事を全て考へ拔いてから、その上で、わたしの言ひたかつた事を考へた時、讀者はわたしの求めたものが何であつたのか解るであらう。


 わたしの求めてゐるものは、一つの意見ではない。
 また、それに反する幾つかの意見でもない。
 抑々(そもそも)、わたしの求めてゐるのは意見ではない。
 もう一度言へば、わたしの求めてゐるものは意見ではない。
 わたしが求めてゐるものは、どうにも出來ない程の、ぎりぎりの限界である。
 この時、人間は不可解で、美しく、醜いものをそれぞれの状況に應(おう)じて現してくる。
 これは突發的で、その結果は、ただ美しい時には美しく、醜い時には醜いのである。
 また、不可解な時も同じである。
 もうこの時には、個人の意見を聞いてゐる餘裕はないのである。
 假(かり)に、その一人の意見といつた所で、傍觀者としての意見でしかない。
 それに、幾ら正しい判斷が出來たとしても、もう理性や精神だけの問題ではない。
 その立場に置かれた人間の本性とでも言はうか。
 諄(くど)いが、わたしが求めてゐるものは、二つの相反(あひはん)した意見ではない。
 二つの相反した意見は、わたしの作品であるものには、一通り流れてゐるものと思つてくれて間違ひはない。


 では、『愛ニ飢タル男』の何處がさうかと言へば、先に書いた事を考へた時に解つてもらへると思ふし、これも解つてをられるかも知れないが、一應、書けるだけ書かう。
 この場合、わたしの求めたものは、前の方程式に當()て嵌()めれば、さきに書いた二つの相反した意見が出るといふ、それ以前の問題だといふ事になる。
 それを具體的に言へば、この作品は良いとも言へるし、惡いとも言へる。
 例を掲げれば、

 『言葉のアソビに過ぎん』

 とも言へるし、

 『新鮮味がある』

 とも言へる。
 ぢやあ、どちらなのかと言へば、どちらでもなかつたりする。
 詰り、解らないといふ事を除けば、かうだとは言へないのである。
 それに、

 『言葉のアソビに過ぎん』

 とは言ふものの、讀者が「折句(をりく)」だと氣がつかなければ、冒頭の、

「あいうえお」

 といふ雜念なしに、この『愛ニ飢タル男』を普通の短歌として鑑賞してゐるに違ひないのである。


人間とはをかしなもので、便所へ行つて手を洗はなかつた人の料理でも、それを知つてゐる者には、穢(きた)くて、とても食べられたものではないが、それを知らない者には、幾ら穢くても、何の抵抗もなく食べる事が出來るのである。
こんな事をいふと、

「その食べ物には、大腸菌がついてゐる」

といふ人がゐるかも知れない。
それは確かに事實だ。
しかし、わたしが言ひたい事は、人を騙せといふ事でもないし、いはゆる唯物論でもない。
さつき、何も知らずに料理を食べた人に、その食べ物を料理した者は便所へ行つて手も洗はずにそれを作つたと言へば、今まで美味さうに食べてゐた事も忘れ、吐き氣を催して、料理を食べるのを中斷するのは勿論、調理人である藝術家に喰つてかかるだらう。
この世に棲息する者は、黴菌(ばいきん)で汚れてゐるものばかりである。
黴菌で汚れてゐないものは、黴菌だけであらう。
極端に言へば、大腸菌がついてゐなくても、不味(まづ)いものは不味いのである。


わたしが『愛ニ飢タル男』で求めてゐたものは、この作品が良いとか惡いとかいふのではなく、もうそれを言つてゐる閑(ひま)もないといふ事であり、また、批評する事ではなく、それぞれが身に感じ取つてくれれば良い事だと思つてゐる。
わたしは一つの作品を讀んで、その感想に良いとか惡いとかいふ事は嫌ひであるし、避けたいと思つてゐる。
いや、それはいふ可きではないとさへ思ふ。
特に、わたしは作品の主題として、正義とか惡を考へてはゐない。
わたしは良いとか惡いとか言つてくる人には、それぞれ甘さがあると思つてゐる。
『愛ニ飢タル男』の中で制約した事が、良いとか惡いとか言つてゐられる者は、わたしに取つて必要ではない。
わたしに向つて、

『時間の浪費ですぜ』

と言つた者は、その人がそのまま時間の浪費をした事になる。
わらしは、ぎりぎりの限界で何かを見ようとしてゐる。
わたしは、

『カルネアデスの板(デイレンマ)

に魅了されてゐる。
その時、わたしは生きてゐる。
ともあれ、わたしには最も厭(いや)な事がある。
それは、詩人や作家は言葉を使はなければならない、といふ事である。
どうもこれは致し方ない。




七、『蛇足』といふもの

 この「わたしの作品に於ける私感」は、主(おも)に『愛ニ飢タル男』を中心として、他のわたしの作品に於けるわたしの態度とか考へ方を、周りに暈(ぼか)して書いて見たのである。
あくまでも主體(しゆたい)は『愛ニ飢タル男』で、その事に就いては出來るだけ、わたしの考へた事を書いたつもりであるが、かなり長いものになつてしまつた。
この長さは、實(じつ)に本分(短歌のみ)の『愛ニ飢タル男』の倍以上もの長さであるが、それもやむを得ない。
 尤も、さう思ふのはわたしだけかも知れない。
 最初は、こんなに長くなるとは思つても見なかつたし、する氣もなかつた。
 しかし、書いていくうちに、あれもこれも書かなければいけないと思ふ事が出て來て、かかる事態に陷(おちい)つたのである。


 『愛ニ飢タル男』に就いては、これだけ長いものを書いたのだから、もう書く事はないだらうと思ふのだが、何か忘れものをしたやうな氣がしてならない。
 もの足りないと思ふ事、甚だしい。
 さう言へば、この『愛ニ飢タル男』といふ題名は、漢文の眞似(まね)をして書いて見たのだが、正確にはかうはならない。
 中國の言葉は、その排列(はいれつ)が英語によく似てゐて、

 「S(主語)+V(動詞)
 「S(主語)+V(動詞)+C(補語)
 「S(主語)+V(動詞)+O(目的語)

 といふやうな按排(あんばい)になつてゐる。
 だから『愛ニ飢タル男』の場合では、

 「男飢タリ愛ニ」

 となるのが本當(ほんたう)であらうが、しかし、この場合だと、わたしの苦心も意味を成さなくなるで、

 「あいうえお」

 といふ言葉を當嵌(あては)める爲に、仕方がなしに『愛ニ飢タル男』としたのである。


 のみならず、わたしは斯()くの如く、歴史的假名遣を好んで用ゐてゐるのだが、『愛ニ飢タル男』の場合に於いて、このやうな書き方が出來なかつたのは、これで書くと、いろいろと不都合な事が生じるからである。
 例へば、

 『あ行』の「い・え・お」であるが、これは、
 『や行』は「い・え・お」と同じだから良いとしても、
 『わ行』の「ゐ・ゑ・を」はどうにも仕方がない。

 御負けに、

「ゐ」や「ゑ」を使つた言葉は非常に少ない所か、
 「を」以外は、現在使用されてはゐないのである。

 これでもし歴史的假名遣で書く事になると、一層の困難になる。
例へば、

あいたさに
いざ立ちめけや
うらこいし
繪を描くいまも
おもいは君ぞ
 
 とあるが、

   いざ立ちめけや

 は良いとして、

   繪を描くいまも

 の「繪」は、

 『わ行』の「ゑ」になるのであり、嘗(かつ)ての、
 『あ行・や行・わ行』の歌の一部を、書き換へなければならない事になる。

 これらの困難を取り除く事は、とても出來さうにない。
 そこで、現代假名遣を利用して解決する外はない、といふ事になつたのである。


 それでも、ある人の感想で、

 「この『愛ニ飢タル男』は難しい言葉を使ひ過ぎてゐるし、詩的でない言葉も含まれてゐて、非常に一般の人には解り難(にく)いだらう」

 との意見を聞いた。
 さうして、

「もう少し簡單な言葉が使へないのなら、一首の短歌に、いちいち作者の意とする解説なり、言葉自身の持つてゐる意味を、書いておいてはどうだつたらうか」

と言はれた。
わたしも難しいとは思つてゐたが、日本人が日本語を讀むのに解説もないものだらうと思つて、敢(あへ)てつけなかつた。


この『愛ニ飢タル男』は、昔の事を書いたのではなく、現代が舞臺(ぶたい)となつてゐるのだが、にも拘はらず、古文を使用したのには譯がある。
それは、萬葉の時代から、人の心は變(かは)りがない。
たとへ、この世の中が變り、自動車が走つて、飛行機が飛ぶ世の中とならうとも、人情や人生の孤獨(こどく)とか寂寥感(せきれうかん)は、さうして、特に戀愛(れんあい)の感情は、萬葉の昔も現代も、ものこそ違へ、形こそ違へ、時代こそ違へ、變りはないだらう。
さう思つて、現代の戀愛を書くのにも、古文を態々(わざわざ)使つたのである。
これに解説をつける必要は何處にもない。
この作品は、入門書なり虎の巻ではないのである。
あくまで純文學を志(こころざ)す者として、筆者は書いたのである。
馬鹿らしくて、解説などをつけられたものではない、と思つてゐる。
難しければ、本を讀む人が辭書を調べて讀めば良い。
わたしは親切な人間ではないかも知れないが、また、それをする事が親切といふものだ、とは思つても見ない。


日本の言葉は、その一つひとつに美しさがあり、深い意味を持たせたゐる。
大國と言はれてゐる諸外國の言葉は、ただの符號に過ぎないが、漢字一つをとつても表情がある。
その表情に一番ぴつたりする所が何處であるかを辨(わきま)へてゐるのが、作家であり詩人である。
これをして、日本語の優れてゐる所以(ゆゑん)である。
日本語は中國から傳はつて來たものの、もう中國から離れて、一人歩きをしながら完成されたものと見て間違ひはない。


どうも今のわたしは、何を言ひ出すか解つたものではない。
もう止めよう。
日本語の優れてゐる話などしても仕方がない。
場所柄をを辨へろ、といふものだ。
(あま)り、中國を見下して日本語を褒め過ぎると、中國から文句が出て來さうである。
いやはや、もう出てゐるらしい。
中國の『戰國策』といふ書物に、有名な「蛇足」の話がある。
白文で申し譯ないが、例の觸(さは)りだけ言へば、

『乃 左 手 持 巵 右 手 畫 蛇 曰
「吾 能 爲 之 足」未 成 一 人 之
 蛇 成 奪 其 巵 曰「蛇 固 無 足
 子 安 能 爲 之 足」』

といふ所でやめるとして、わたしの思ひ浮べた「蛇足」の話の意味は、どうも今のわたしが書いてゐる日本語が優れてゐると主張してゐる事を指してゐるやうだ。
確かに、『わたしの作品に於ける私感』の中では、お門違ひといふものらしい。
どうやらこれは、わたしへの戒めか。


とすれば、わたしはもう筆を擱()く可きだといふ暗合になるやうだ。
詰り、これは蛇足といふものらしい。
では、最後とする爲に、許可も戴かない儘に、二人の意見を掲載した事をお詫びするとともに、わたしに厖大(ばうだい)なる借金を許してくれた、高橋君や井上君に、お禮を申上げます。
これで『愛ニ飢タル男』の事に關しては、全て終つたと思つてゐる。
もう思ひ殘す事はない。
さう、『愛ニ飢タル男』に關しては、もうこれで書く事がない、と思ふのだが、さて果してどうだらうか。


一九七〇年昭和四十五庚戌(かのえいぬ)年彌生から同年卯月十三日脱稿







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『愛ニ飢タル男』の表記法としての歴史的假名遣の價値
http://murasakihumio.blogspot.jp/2012/09/blog-post_7.html



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